「ファミレスでワインを飲むのはダサイのか?」を深読み!

今回読み解く記事
Xの投稿より
「ファミレスのワイン飲み」に向けられる謎の視線
Xで、「ファミレスでワインを飲むのは貧乏くさいのか?」という投稿が話題になっていた。
投稿者によると、ファミレスで彼氏とワインを飲んでいた女性を見て、
知人が「ダサい」「貧乏くさい」と言ったのだという。
私はこの投稿を見ながら、「むしろ何がダサいのだろう?」と思った。
実は私自身、ジョリーパスタで泡を飲む「ジョリ飲み」が大好きだからだ。
ジョリーパスタは、つまみの種類も多いし、おいしい。
しかも泡がしっかり冷えている。
家族とワイワイ飲むには十分楽しいし、気を遣いすぎなくて済む。
高級店とは別ジャンルの幸福感がある。
少なくとも私は、そこに「貧乏くささ」を感じたことは一度もない。
人はなぜ、他人の食事にマウントを取りたがるのか
ではなぜ、人は他人の食事や店選びに対して、「ダサい」「安っぽい」と言いたくなるのだろうか。
理由の一つは、「食がその人の価値観や階層意識を映しやすい」からだ。
どこで食べるか。
何を飲むか。
どんな店を選ぶか。
そこには、その人の美意識や経済感覚がにじみ出る。
だからこそ人は、自分の価値観を正当化したくなる。
「高い店に行く自分のほうが上」
「安い店を好む人はダサい」
そう考えることで、自分の立ち位置を確認したくなるのだ。
特にSNS時代は、この傾向が強い。
高級鮨。
ホテルラウンジ。
会員制レストラン。
もちろん、そうした場所を楽しむのは素敵なことだ。
だがその一方で、「どこで飲むか」によって人の価値まで判断したがる空気も、SNSには少なくない。
ワインはすでに「日常酒」になっている
そもそも、「ワイン=高級」という感覚自体が、少し古くなり始めている。
昔はワインといえば、特別な日の酒だった。
フレンチやイタリアンで飲むもの。
背伸びして味わうもの。
どこか「非日常の象徴」だった。
だが今は違う。
コンビニでもワインは買える。
家飲みも当たり前になった。
「サイゼ飲み」文化も定着した。
つまりワインは、とうの昔に「日常酒」になっているのだ。
だから、「ファミレスでワインはダサイ」という感覚そのものが、今の酒文化とズレ始めている。
むしろ今は、「どこで飲むか」より、「誰と、どう楽しむか」の時代になっている。
若い世代ほど「コスパ幸福」を重視する
特に若い世代は、「高級であること」そのものに、以前ほど価値を感じていない。
それよりも、
・気軽に入れる
・長居しやすい
・気を遣わない
・おいしい
・仲間と楽しめる
こうした「居心地」を重視する傾向が強い。
つまり、「高い店だから幸せ」ではなく、「楽しいから幸せ」へと価値観が変化しているのだ。
長引く不況を経て変わった価値観
かつては、「高い店に行けること」自体が、一種のステータスだった。
夜景の見えるレストラン。
高級ホテルのバー。
名前の知られた有名店。
「いい店を知っていること」や、「そこに連れて行けること」が、大人の成功や余裕の象徴だった時代が確かにあった。
だが時代は変わった。
長引く不況や物価高を経て、今は「無理をして背伸びする」よりも、
「自分が心地良く過ごせること」に価値を置く人が増えている。
特に若い世代ほど、「人からどう見えるか」より、「いかに自分達らしく楽しめるか」を優先する傾向が強い。
だからこそ、ファミレスでワインを飲みながら笑い合う時間にも、十分な幸福を感じるのだろう。
いや、これは若い世代だけの話ではない。
本物も、偽物も、時代の浮き沈みも見てきたバブル世代もまた、
「幸せは値段だけでは測れない」と実感している人は少なくない。
だからこそ、ファミレスでワインを飲みながら笑い合う時間にも、十分な幸福を感じるのだろう。
幸せは誰かと比べるものではない
もちろん、高級店で味わう特別な時間も素晴らしい。
私も『ピータールーガー』や『ジャン・ジョルジュ東京』ですごす時間は大好きだ。
だが一方で、ファミレスで気軽に笑いながら飲む時間にも、確かな幸福はある。
大切なのは、どれだけお金をかけたかではない。
誰と過ごすのか。
どんな空気の中で笑えるのか。
ファミレスでワインを飲むことがダサいのではない。
他人の幸せを自分の価値観でジャッジしてしまうことのほうが、よほど貧しい。
深読みポイント
- 幸せの形は一つではない。「ファミレス飲み」が教えてくれる現代の幸福論
- 幸せは、店の格ではなく「誰とどう過ごすか」で変わる


